理解するということ & 説明するということ

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きょうは共同研究者(企業)とミーティングした。前回のミーティングのFeedbackで「全体像がよくわからない」とコメントがあったので、全体像を説明するスライドを作った。ついでにデモデータでアルゴリズムの実行例も載せておいた。

でも、結局のところ、指導教官が説明しただけで「わかった」と共同研究者が納得した。わかったのかよ(笑)。前回は「わからん」と言ってたからスライド作ったのに。結局のところ、スライドは使わなかった。まぁ、いいか。

「理解する」ということについて、あらためて自問してみた。ぼくは数式の流れを読んでいると、よく「わからない」という感覚に陥る。でも、紙とペンを持って、式の関係をイラストにしてみると「わかった」という気分になる。どうやら、ぼくの「わかった」は全体像の把握を意味してるらしい。

ふと、エンジニア新人時代の上司を思い出した。北米出身の彼は「理解すること」を「どんな理解レベルの相手にも、言葉を選んで概要を理解させること」と頻繁に言っていた。当時はぼくの英語レベルが低かったので、十分に理解できてなかったかもしれないが。でも、きっとそういうことを言ってた。コンサルティング経験者の彼にとっては、「理解」と「説明」が切っても切り離せないのだろう。頻繁に言われたので、よくなんとなく意識に残っている。

ぼくの「理解」も彼の定義に近いところがある。ぼくは聞き手に理解できるように説明できてないと「あれ、自分で理解してないのかな?」という気分になる。

そういえば、元上司はこうも言っていた。「コンサルティングの仕事で『わかってるっぽい』雰囲気は大切。物事の大枠さえ理解しておけば『こいつなら、ぜんぶやってくれる!』という印象付けができる。それだけで仕事は進む。要はハッタリでもイイんだよ。詳細な説明と理解は自分の為にすればいい。」

彼の言葉がぼくの意識に残っているのだろう。ぼくの作るスライド・資料は全体像の説明に焦点を当てがち。一方で、理論的な詳細を無視しがちな傾向がある。きっと、仕事の上ではそれでもいいのだろう。でも、仮にも機械学習理論の研究しているわけなので、今はそういうわけにも行かない。

そういえば、元上司のアドバイスはなかなか今でも役に立っている。特に「いそがしい人に向けたわかりやすい文書の書き方」はドイツ時代でも、いまでも役に立っている。

ドイツ時代には「君の書く報告書はわかりやすくていいね」と言われたこともある。当時は「お世辞やろ(笑)」と思ってたのだが、よくよく考えればドイツ人という人種はお世辞を言わない。きっと、本当にぼくの書いた報告書が当人にはわかりやすかったのだろう。

こう考えてみると、彼のアドバイスがとても役に立っているのだろう。感謝。仕事上のトラブルで、最後は元上司とは後味悪い別れ方になってしまった。元気にしているのだろうか。

理解することについて、もうひとつ思ったことがある。ぼくのパートナーは「理解した」と言いがち。ぼくは「いやお前、わかってへんやろ」と思いがち。最近は「まぁ、本人が『理解した』って思ってるならいいか」くらいの気持ちになっている。

彼女くらいの自信家?になれればいいのになー、とぼくはときどき思う。これまでの経験から、西アフリカ系の人たちってこれくらいの自信家が多い気がしている。偏見なんだろうか。

雑記

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